村山絣と慶性院の縁について知る機会がありました。
絣(かすり)は、紺地の中に白い点が飛び交う模様が特徴の織物で、江戸時代中期以降江戸でもてはやされました。
当山の位置する辺りでは、古くから農間商として木綿縞が織られていたそうですが、絣がもてはやされたことから文化年間に狭山丘陵南側の村々で木綿絣が織られるようになり、「村山絣」と呼ばれました。
この起源となったのが、文化6年(1809年)当山住職杲尚和尚が、大和国に行き薩摩絣の布を持ち帰り、これを武蔵多摩群芋久保村の荒幡(荒畑)五郎兵衛の妻である荒幡(荒畑)シモに与えて模倣させたことが始まりとの話です。
地域の伝統工芸産業である村山大島紬へ通じる村山絣の起源に当山が関わっていたという話に驚くとともに、地域の発展を願って産業振興を主導した当山先師に大きな刺激を受けました。