正式には「白部山医王寺慶性院」と称し、武蔵村山市中藤にある「龍華山清浄光院真福寺」の末寺でありました。
開山以来永く三寶院に属しておりましたが、明治29年(1896年)より奈良県桜井市初瀬にあり、花の御寺として有名な「長谷寺」を総本山とする真言宗豊山派に属して現在に至っております。
山号である「白部山(しらべさん)」は、地主神として境内の鬼門に白山大権現をお祀りし、伽藍鎮護を祈念したことに由来します。本地垂迹説(佛菩薩と神との関係を考察した説)によれば、白山大権現は十一面観世音菩薩と異身同体、つまり十一面観世音菩薩は白山大権現の本体であると説明されております。
寺号である「医王寺(いおうじ)」は、薬師如来の異称である医王に由来します。開山当時のご本尊は薬師如来であったと伝えられております。江戸時代後期に編纂された新編武蔵風土記稿では医王寺として紹介されており、当時は主に寺号を名乗っていたものと推測されます。
院号であり、檀信徒の皆様より最も親しまれている「慶性院(けいしょういん)」は、慶長(国や国民の永遠の繁栄、個人の長寿を心から願う意味)と同義である慶性に由来します。また、当山が慶長年間に開山されたことの裏付けともなっております。
地鎮安宅を祈願する白山大権現を祀った白部山は、やがて薬師如来を安置することにより、衆病悉除を祈願する医王寺となりました。そして、江戸時代現在のご本尊である不動明王を新たに造立開眼し、息災増益を祈願する不動信仰の慶性院として今日に至っています。
開基は室町時代(戦国時代)後期の天文年間(1532年~1555年)と伝えられ、羕尊上人により寺院建立の場所が選定されたといわれております。このとき、浄地の選定のみであったのか、同時に小庵建立されたかについての詳細は分かっておりません。当山では、羕尊上人が遷化された天文16年(1547年)正月3日を開基の起点としております。
開山は江戸幕府開幕の少し前、安土桃山時代と江戸時代を跨ぐ慶長年間(1596年~1615年)と伝えられております。この頃当山第2世である羕秀上人により寺院としての形が整えられたものといわれております。当山では、羕秀上人が遷化された慶長6年(1601年)11月28日を開山の起点としております。
江戸時代中期の明和2年(1765年)時の住職・鏡意和尚が真言宗正統の法派を伝承し、不動護摩の伝授を受け、これを修するため本尊を新たに造立したと伝えられております。
現在のご本尊様はこのとき造立された不動明王(座像)で、それまでご本尊であった薬師如来像が奥ノ院に移されました。
ご本尊様は、高さ40.5㎝、台座の裏に「江戸麹町18丁目 吉見兵朗」の文字が記され、この吉見兵朗氏が作ったものと伝えられています。
明和4年(1767年)の記録に「小仏を胎内仏にした」と記されており、新たに本尊を造立する際、開基の頃より祀られていた小さな不動明王立像が胎内に納められたと伝えられておりました。
長らくその詳細は不明でしたが、昭和61年(1986年)東大和市文化財調査委員会により調査が行われ、ご本尊の腹の中に高さ38㎝の不動明王立像が納められていることが確認されました。
この調査では「明治25年6月 本尊並宮殿塗替 神奈川県北多摩群府中 大佛師 梶川又次郎」と書かれた札が発見され、胎内仏が94年ぶりに外に出されることとなりました。
この胎内仏は、室町時代末期から江戸時代初期に造立されたもので、弁髪・玉眼、本尊と同じく檜の寄木造で、天然石の瓔珞(ようらく・首飾り)をしておられます。
不動明王立像は今もご本尊様の胎内に納められ、当山秘仏胎内仏として信仰されております。
鐘楼右側に建っているのが奥ノ院「薬師堂」です。薬師堂には、明和2年(1765年)まで本尊であった薬師如来立像を中心に両脇佛である日光菩薩・月光菩薩と十二神将が祀られております。
当山の薬師如来像は「善名称吉祥王如来」といい、薬師如来がご利益を発揮する時の化身の一つです。
江戸時代に編纂された新編武蔵風土記稿では行基菩薩の御作と称せられていました。実際には作者や年号の記録がなく、正確な時期は分かっておりません。作風から安土桃山時代の作といわれ、当山開基の頃に造られたものと推測されます。また、一説には天正年間(1573年~1592年)に武相地方で活躍した仏師玉運法眼の作であるともいわれております。
古来より特に眼病平癒の心願に霊験ありと信仰されており、今でも熱心にお参りに来られる方がいらっしゃいます。
毎年4月8日の花まつりでは御開帳を行い、そのお顔を拝んでいただくことができます。また、檀家やご希望の方には毎年秋に五穀豊穣・諸人快楽をご祈願したお薬師様のお札を頒布しております。
当山は武州多摩郡山口領芋久保村大字上石川(現在の村山貯水池上湖北西湖畔)に建立されました。北に薬師の峰、南に石川の清流を望んで、周囲を松の緑に囲まれた豊かな土地でしたが、東京市により通称多摩湖と呼ばれる村山貯水池建設用地として境内地を含む上石川地区一帯が買収されたことにより、現在の地に移転してきました。
移転改築工事は大正11年(1922年)12月に着工し、大正12年(1923年)3月30日に竣工しました。
左の絵図は当山に残る移転前の山内図です。表門を入ると左側に池があり、正面に本堂が描かれています。
池の橋を渡って石段を上ると薬師堂と鐘楼があり、薬師堂が奥の院といわれる由縁です。
諸堂の配置こそ変わりましたが、現在も当時の面影を残しています。
上石川にあった頃の表門は、寺院の門としては珍しい「長屋門」形式であり、豪農の長屋門を慶性院が譲り受けたものといわれております。
村山貯水池建設に伴う移転当時、資金不足から表門の移築を断念し、貯水池用地内に長らく放置されておりました。
しかし、昭和29年(1954年)に貯水池愛護会の有志が荒れ果てた山門に心を痛め、現在の村山貯水池北側(東京都東大和市多摩湖3丁目)に「慶性門」として移転し修復されました。
このときの調査で、欅の大柱の柄に墨書があり「奉再表門一字 文久元幸酉十一月廿六日 住持 恵鏡 名主 景左衛門」、別の柱に「古表門四本柱 再建長屋門 大工田中弥五右衛門 木挽菅沼孫右衛門」とあることから、文久元年(1861年)に建てられたことが分かりました。
平成2年(1990年)10月に東京都水道局から東大和市に無償移管され、平成3年(1991年)には文化財保護のため大規模修復工事が行われました。
多摩湖の湖底に沈んだ村々の唯一の建造物として、今なお石川谷の当時を暮らしを偲ぶ姿を残しております。
現在、慶性門を含む多摩湖橋と上貯水池一帯の情景は、東大和市の「東やまと20景」として、残しておきたい景観に選ばれております。